23/04/09 内なる身体への気づき

令和五年(2023) 鎌倉マインドフル・リトリート 山下良道(スダンマチャーラ比丘)

内なる身体への気づき

『進みと安らい』の自己曼画

裏磐梯一法庵プロジェクト  3.4 ご喜捨のお願い

喜捨をした感想

裏磐梯一法庵設計変更図   ↓

 

2 thoughts on “23/04/09 内なる身体への気づき

  1.  まず、映画「ウォッチメン」の「ロールシャッハ」について。次に私の近状について。

     ロールシャッハの名前は、ウォルターといい、母親は売春婦です。父親が誰か分かりません。ウォル
    ターは、売春婦の母親が客と「接客」している場面に出くわします。何も知らないウォルターは、「
    お母さん、どこか痛いの?」と聞きました。客は毒ついて部屋をでていき、母親は「やっぱり生むん
    じゃなかった」と言い、ウォルターを平手打ちにしました。
     場面が変わって、通学途中に、同級生がウォルターを、母親が売春婦だとからかいました。からかわ
    れたウォルターは、激高して、同級生を血まみれになるまで、殴りつけました。

     成人したウォルターは、ウォッチメンの第2世代のスーパーヒーロー「ロールシャッハ」になりまし
    た。最初は、子供に関わる犯罪者を痛めつけるだけでした。しかし、「誘拐した子供は、切り刻んで犬
    に食わせた」と笑いながら話す犯罪者を激高して殴り殺すと、その後は、犯罪者を、無条件かつ残忍に
    殺害するようになりました。
     何も知らないウォルターから「ロールシャッハ」、次に犯罪者に転落します。

     もしウォルターが瞑想をしていたら、自分が「思い」によって、「自由な行動」や「適切な判断」が
    出来ない、つまり、自分が作り出した映画の中で、それが映画だと理解できないまま行動していること
    を理解できた、とは私は思えませんでした。私の瞑想が成功していないからです。

     「アラカンカとは何か?」と聞いた時、「あの樫の木がアラカンカだ。あの樫の木を、ありのままに
    見続ければいい。あなたが、瞑想センターでやるたった一つのことだ」と言われました。「樫の木」を
    「見る」という作業を繰り返していくと、その作業をしている間は、自分の思い、が弱まっていく感覚
    がしました。私が、「私の思い」から解放されたような気分でした。(この部分は作り話です。念じる
    対象と念じる心だけになった、といいたいのですが、言える段階できないし分かりづらいので。)

     初めてミャンマーの瞑想センターに来た時、私はシダッタ像が見れませんでした。月日が経つにつれ
    て見れるようになったのは、「思い」から解放されたいという欲求を私が受け入れることが出来るよう
    にるようになったからです。それは無意識を意識に転換する、はじまりでした。別の言い方では、「生
    みの苦しみ」とも言われています。
     ミャンマーの瞑想センターにいた最後の日には、継続できないかな、と思うほどに強い背中の強い痛
    みとだるさに苦しむようになりました。面談のとき、責任者に身体がだるい、と報告するほどでした。
    日本に帰国して、瞑想センターから許可証が届く3か月前に、より一層ひどくなりました。それと同時
    にコロナウイルスによる海外渡航の中止が発表され、私は、安堵しました。

     しかし、最近になって、私は、「思いから解放」される意味が理解できるようになりました。「光の
    中のマインドフルネス」に書かれている内容がスラスラと理解できていると、信じています。
     今なら断言できます。「ウォルターも瞑想をすれば、自分の思いから解放される。」これが私の結論
    です。念じるという作業が非常に強力に、そして自動的に実行される状態になった経験は少ししかあり
    ません。面談で報告できる段階ではないです。そのため、二重構造や、その他のワンダルマの考え方を
    全面的に賛成する知識や能力は、私にはありません。

     しかし、私の課題は、克服されつつあります。その経験は、二重構造等のワンダルマの考えを支持し
    ています。
     

    1.  補足します。

       この「二重構造」や、「第三図」、「第四図」、「第五図」などの違いは、瞑想に成功していないと理解できません。
      「念じられる心や身体(念じる対象)」と「念じる心」だけが自動的に連続されるようにならないと、「もう一人の私」
      が理解できないからです。最後には、「他事に巻き込まれる私」も「念じられる心や身体(念じる対象)」として、念
      じられるようになります。すぐ止めることなく念じて、ベースになっている腹部のふくらみ、ちぢみに戻ります。さら
      には、「念じる対象」と「念じる心」だけになります。「私」が抜け落ちた状態になります。

       これでなぜ無意識に影響を与えてるかは分かりません。推測でしかないですが、私の「怒り(過去について)」や「
      欲(未来について、不安を含む)」が現れたとき、これを自動的かつ瞬間で、「きがついている」状態になり、結果と
      して、社会性が向上するいわゆる、「適切な行動」が可能になるからだと思います。
       辛い人生だった、不幸が重なったとしても、今でない、と理解できるからです。「傷心体験」から心が解放されるの
      です。優秀だった自分、という思いに束縛される「傲慢」や、効率を求める、という思いに束縛される「守銭奴」、他
      人の地位などの処遇をうらやむ「妬み」、作業に執着することで何かから逃げようとする「依存」からも解放されると
      考えています。

       自分の「思い」が、自分の認識をゆがめたか、今なら分かります。

       

       

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です。

CAPTCHA