20/01/19 芋は洗わずに食べるものなのだ!を手放せない

令和二年(2020) 鎌倉マインドフル・リトリート 山下良道(スダマチャーラ比丘)

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One thought on “20/01/19 芋は洗わずに食べるものなのだ!を手放せない

  1. いつもお世話になります。
    先生様たちがインド旅行中に今までのご本何度も何度も読み返しました。
    クリアに見えるということですが、外ということを理解してからは(確信あり)、昔から思っていましたこと、どうして自分は自分で他人じゃないのかがわかりました。。
    そして、死が怖いという恐怖、病気で治らないことも。

    クリアというか何か違うんですよ。ひらめきというか、たくさんあるかな。

    先生は輪廻転生はないと言われます。

    私は今、脳内映像の中で錯覚の中というのは承知の上で考えているとして、ちょとぐらい慈悲の瞑想が好きで観音様が最後の頼りと思っていても、思考が真実であるという幻想と一体化しているエゴの働きから、体が苦しくなるとウワーッてなるからねえ、コレくらいのクリアでは、なかなかどうにもこうにもならないところもあるんですよ。
    自分のこととしてみると、もちろん自分は他人じゃないから他人のようなあり方で存在してないから、この無常の波としての私は、いくら生じて滅して生じて滅しても、今この瞬間の波(自分)と同じなんだ。
    体も心も、もちろん異なりますが、なんというかうまくいえないのですが、今このあるという感覚はどの波も一つで同じなんだと気がつきました。
    ということは、永遠に波であったとしても自分としては一つだから、どの波であったとしても、今この文章を書いている波としての何かと同じだから、もう死の恐怖はないと言うことになりますよね。
    例の「波という形の中に水という本質はあるけれど、水は波に所属しない」

    実は無常に消滅する波も、一つの私(今)の連続で一つの私だったなんて、だから死の恐怖はなくなった。
    たとえ波であろうと水であろうと一つとしての在り方が自分。なんて人には話せない。

    波=水、水=波、
    と勝手に気がつきました。

    勝手にです。他の人(錯覚?)にはわからない、そういう在り方が、波としての自分かな。
    でも、波=水水=波。

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