19/03/21 「UFOとしての私」が慈悲の瞑想の謎を解く Posted on 2019年3月21日2019年3月21日 by onedhamma_ryodo 2019(平成31)年 京都春彼岸接心 山下良道(スダンマチャーラ比丘) http://ia802909.us.archive.org/12/items/OneDhamma2019/OneDhamma_190321.mp3
今回の法話、大変興味深く拝聴いたしました。実は一年半ぐらい前に、苦諦がいまひとつわかりませんが、法話を聴いています、というようなコメントを書き込んだことがありました。その後、聖書の楽園追放の部分を読んでいた時に、ふと楽園追放と苦諦は同じことを語っているのでは?という思いが起こって、その瞬間、苦手だった苦諦も原罪もストンときたのです。それ以来、どちらもあまり問題ではなくなりました、そのことについて深く思いを巡らしたわけではありませんが。「楽園追放」は一応”歴史的”出来事として語られていると思いますが、ちらっとおっしゃられた「浄土追放」はどう位置付けられるのでしょうか? 返信
今回の法話、大変興味深く拝聴いたしました。実は一年半ぐらい前に、苦諦がいまひとつわかりませんが、法話を聴いています、というようなコメントを書き込んだことがありました。その後、聖書の楽園追放の部分を読んでいた時に、ふと楽園追放と苦諦は同じことを語っているのでは?という思いが起こって、その瞬間、苦手だった苦諦も原罪もストンときたのです。それ以来、どちらもあまり問題ではなくなりました、そのことについて深く思いを巡らしたわけではありませんが。「楽園追放」は一応”歴史的”出来事として語られていると思いますが、ちらっとおっしゃられた「浄土追放」はどう位置付けられるのでしょうか?