5 thoughts on “16/03/27 いま、ここの「世界ぐるみの私」を生きる

  1.  少し、コメントさせて頂きます。
     仏教の思想は、2500年の時間経過があり簡単ではありませんね。特に、無我(非我)の思想で言えば、ブッダ滅後200年前後位の部派仏教の時代に「我なしの無我」が説かれるようになり、「輪廻の主体は何なのか?」の説明が困難になってしまったという経緯があるようです。
     (「仏教・インド思想辞典」452頁)

     そう考えると、言葉の持つ意味というのはとても難しいものだと考えます。山下先生の説く「青空」も、そのようにデリケートなものだと考えておりますが、それについては、先生の4月3日のご法話のコメントに少し書かせて頂きました。

     実は私も質問者の方と同じように、「解ったような気持ちになって」長い時間過ごしておりました。数年前、深い瞑想が出来るようになり「妙に落ち着いた静かな存在」を自分自身の心の奥底に感じ、ヨーガ哲学や中村元先生の著書を読み直して「無我(非我)の思想」が少し合点がいった次第で・・・恥ずかしい話、仏教を学んで30年以上経過していてもこのような状態です。

     そう考えると、仏教の思想は深淵・微妙であり、「決めつけない」ということと、常に問題意識を持って地道に精進するのが大事なのだと、今更ながらそう考えます。
     そう言う意味で一法庵の存在は励みになります。有難うございました。
     

  2. 私の疑問に対してご親切なコメントをいただき恐縮です。仏教に興味をもったきっかけの一つが、中観派などの大乗系が説く無我説のアクロバティックさだったという不純?な個人的経緯があるため、自然、そちら方面の論旨に親しんできたことが今回の自分の疑問に繋がったのだ思います。不用意に「梵我一如」が仏説と両立しないのではないかという主旨のコメントをしたのもその傾きのゆえだと思います。

    その反面、以前、今回引用いただいた中村元先生のご著書を読み、アナートマンを無我と訳さず非我と訳すことで、少なくとも現象的な自我の実在を肯定できることを知って、肩透かしを食らったようでいて内心ホッとしたことを思い出します。その方が実感にかなっているわけですし。

    ただ、その後、自分が学べる範囲では、無我説と非我説の当否を得心する機縁や能力は得られそうもなく、個人的に?不可知の対象のままにしてきました。そんな中、山下先生や貴殿をはじめ、仏教を「実践」されている方々に習い、頭では理会できないかもしれない何ものかを、坐禅や瞑想を通じて体感してみたいと思うようになった次第です。

    そのような意味で、仏教を実践なさっている先達が、真実の自己(アートマン)が存在すると考え、あるいは感じておられることを知ることができた今回は、リアリティーのある、とても有意義な機会となりました。自分もできる限り精進したいと思います。
    ありがとうございました。

  3. 出しゃばって申し訳ありません。
    「無我」と「梵我一如」そして「我」について・・・。私も個人的に仏教(特に、最初期のインド仏教)を研究してきて、この問題を解決するのに随分と時間がかかりました。有名な仏教学者である中村元先生の『ブッダの人と思想』」という書物にその答えが書かれていますので紹介致します。

     ・・・「仏教は古来「諸法無我」といい、すべての存在は実体なきものであるという存在論を展開して来ましたが、原始仏教の時代においては「我(アートマン)にあらざるもの」つまり「非我」が主として説かれています。「我(アートマン)は存在しない」つまり「無我」が説かれ、仏教を無我説として特徴づけるのは時代が下がってからであります。

     非我も無我もブッダの時代から一体として説かれていたものが、時代がたつにつれて微妙なニュアンスの違いを生じ、日本においては我無しの無我は、自己がすべて無くなることであるとの誤解が生じています。もともと「我」(アートマン)とは、ウパニシャッド哲学で最も重視される言葉で、自己の根本を意味し、それが宇宙の根本原理で実在であるブラフマンと一体となることを説いています。梵(ブラフマン)我(アートマン)一如の哲学であります。」(第六章・一切に我がものなし・94頁)

     ・・・ブッダ在世時から時代が下がり「無我」の意味合いが変わった・・・それが仏教思想を考える上で大きな問題(誤解)を生んだのだと考えます。(この問題は、仏教思想の核となるものなので、上記参考文献を読まれ、何度も思索を重ねることを勧めます。)

     ・・・山下先生の教える「青空」とは意識の奥深くに存在する「真実の自己」(アートマン)であり、野球でいうリリーフピッチャとも言える存在だと考えます。そうでなければ、インド哲学で教える「梵我一如」の思想は成立しないと思います。・・・何かの参考に、と言うことでコメントさせて頂きました。大変失礼しました。

  4.  御法話、大変お疲れ様でした。
     しっかり、拝聴させて頂きました。なるべく分かりやすい言葉で仏教思想を説明したいという山下先生の意図(心遣い)が痛切に心に響きました。
     
     最後の20分位のお話で、インド哲学で説く「梵我一如」(ぼんがいちにょ)について、現代人に理解しやすい言葉でお話しているのだな・・・と理解しました。

     ちなみに・・・
     「「梵我一如」の思想は、インド哲学では要ともなる思想で・・・ブラフマン(梵(ぼん))は宇宙の根本原理、絶対者の一呼称となりウパニシャッドにおいて代表的な宇宙原因となった。今一つ重要な原理は、アートマン(我(われ・が))である。これは本来気息を意味した。
     ウパニシャッドの哲人たちは・・・個人の本体アートマンは最高原理ブラフマンと同一(梵我一如)であると説くに至った。・・・さらにその頃からあらわになった輪廻思想とのからみで、梵我一如を体得したものは「輪廻の苦しみから逃れて不死にいたるとされた。」以上、「仏教・インド思想辞典」から抜粋。

     かなり難しい思想(考え方)ではありますが、私は山下先生の御法話をその様に捉えました。
     大変お疲れ様でございました。

    • 朝日カルチャーセンターでの鼎談やポッドキャストのいくつかを大変興味深く拝聴しました。その中で、最近山下先生が表現されている世界観が「梵我一如」というウパニシャッドの概念とどのように連関する、あるいはしないのが気にかかりました。他の方もコメントされているように、私も先生のお言葉から「梵我一如」を連想した者の一人なのですが、本来、仏教の教える「無我」と「梵我一如」の一方の主体としての「我」はロジカルには両立しないというのが一般的な理解かと思います。そのあたりのことをもう少し教えていただける機会があればありがたいと思っています。

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