16/03/06 〈わたし〉が青空からヴィパッサナーする

2016(平成28)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)

3月5日に新宿朝日カルチャーセンターで行われた「鼎談・仏教3.0を哲学する」をうけて、哲学者 永井均先生の<私>と「私」の違いを考察しました。<私>は、内山興正老師の「自己ぎりの自己」、そして一法庵用語の「青空としのわたし」と、著しく親和性があります。

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左から山下良道、永井均さん、藤田一照さん

One thought on “16/03/06 〈わたし〉が青空からヴィパッサナーする

  1. 永井です。いま聴かせていただきました。本質的に私の考えていることと一致していますが、ある一点において違いがあると思うので、私の考えを説明させてください。。それは、良道さんが「誰々さんにとっては誰々さんの自己ぎりの自己の世界がある」というふうな表現を(最初から)されている点です。私の場合はこの「各人にとって」という捉え方を平板な世界観とみなして拒否するわけです。各人にとっての自己ぎりの自己の世界というものはなく、端的に私の私ぎりの私の世界があるだけです。それが端的な事実なのです。そもそも現実にそれしかないので、このことは他者には伝達できません。他者たちは(少なくともそういう意味では)存在しませんから。この問題の難しさは、この伝達できなさコミでこの奇跡的なあり方自体を伝達をしなければならないという点です。「実はあなたのそうなのではないか」と。これはもはや言葉の働きを超えたことですし、端的に与えられた事実でもないのですが。しかし、この奇跡は(奇跡であるにも関わらず)わりあい簡単に起こります! つまり、ここには二重の奇跡があるわけです。まずは、なぜだか〈私〉というものが存在していること。それが存在している以上それしか存在しないこと。そして次に、そうであるはずなのに、そのことが他者にかんしても言えて、なんと共有できてしまうこと。この二つです。まったく、ほんとうに不思議なことです。

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