15/08/23 「映画」をみんなで一緒に見るときに Posted on 2015年8月23日 by onedhamma_ryodo 2015(平成27)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)法話 http://ia800209.us.archive.org/2/items/Onedhamma2015/OneDhamma_150823.mp3
「自分は勝手に上映されていた映画館そのもので、映画館すら消えた世界、 映画館自体が実態がなく、登場人物でもない。映画館の構造を観ている私、 映画館が消えても存在している私。」について感服致しました。 どんな時どんな所にも、ひっそりと存在している「私」に気づくのが瞑想なのでしょうか。 映画館が無ければ、映画を観ることもないのに、何故自分で映画館を創りあげたのか というと、それは、自分で映画を観ることを受け入れたからであり、映画を観ることが、 きっと楽しい幸せなことだと思い込んだからだと思います。 それは、例えとした「30もの伝統ある仏教の宗派」も、それぞれの映画であった ということなのでしょうか。そして誰でも統合できるものなのでしょうか。 映画を観るようになった要因の一つが、各宗教各宗派のドグマだったのでは、 とも思います。 入門者は「映画」によるオリエンテーションが何故か必要で、夢を見ることも 映画を観ることも、一つの道を歩む者としての反省のための調味料・原動力であり、 苦痛や不安を以て支払をしなければならない「お代は見てのお帰り」の お化け屋敷やホラー映画だったのですね。 返信
「自分は勝手に上映されていた映画館そのもので、映画館すら消えた世界、
映画館自体が実態がなく、登場人物でもない。映画館の構造を観ている私、
映画館が消えても存在している私。」について感服致しました。
どんな時どんな所にも、ひっそりと存在している「私」に気づくのが瞑想なのでしょうか。
映画館が無ければ、映画を観ることもないのに、何故自分で映画館を創りあげたのか
というと、それは、自分で映画を観ることを受け入れたからであり、映画を観ることが、
きっと楽しい幸せなことだと思い込んだからだと思います。
それは、例えとした「30もの伝統ある仏教の宗派」も、それぞれの映画であった
ということなのでしょうか。そして誰でも統合できるものなのでしょうか。
映画を観るようになった要因の一つが、各宗教各宗派のドグマだったのでは、
とも思います。
入門者は「映画」によるオリエンテーションが何故か必要で、夢を見ることも
映画を観ることも、一つの道を歩む者としての反省のための調味料・原動力であり、
苦痛や不安を以て支払をしなければならない「お代は見てのお帰り」の
お化け屋敷やホラー映画だったのですね。