慈悲の瞑想

解説と実践

慈悲の意識というのは、我々の”Thinking Mind”とはまったく反対のところ――或いは、逆のところ――にあります。だから、もし我々が何の反省もなしに慈悲の瞑想だけをやろうとしたら当然、うまくいかないのは当たり前ですね。

なぜかといったらば、その左脳的な意識――”Thinking Mind”――の延長上で全ての人の幸せを・全ての人の苦しみからの解放をどんなに願ったところで、どうもウンともスンともピンとこない。なぜかといったら、そこには[慈悲の意識が]無いからですね。

だから、慈悲の瞑想のポイントは、その”Thinking Mind”を超えたところ、”Thinking Mind”が落ちたところにしか存在しない。それがもう、急所です。

そして、そのためには我々は、「今までの人間関係ではどうにもうまくいかないんだ」という、その自覚がまず必要ですね。その自覚がないんだったらば、わざわざ慈悲をやる[=育てる]必要もないわけで。今までどおりの人間関係をやればいいわけで。

だけども、「今までどおりの人間関係だと、どうにも辛い。じゃあ、どこがどう辛いの?どうすればいいの?」という、そういう問題意識から我々は入っていきます。

今までの人間関係というのはどういうものかといったらば、そこにはもう3つのチョイス(=選択)しかなかったですね……いつも言いますように。

それは、「好き」か「嫌い」か「無関心」。すべての人と、「好き」か「嫌い」か「無関心」というこの3つのカテゴリーでしか関係をもつことができなくて。

そのなかでも、「好き」という思いは、この3つのなかでは当然良さそうでポジティブなように見えるけれども、――もう我々が全員知っているように――「好き」という一見ポジティブに見える感情でも、ネガティブな思いからは解放されない。

色々な人を好きになったとき――いわゆるの「人を好きになったとき」――に、疑いだとか嫉妬だとか不安だとか恐怖だとか、時によっては怒りだとか、そういうネガティブな感情が、不思議なことにつきまとう……本当にこれは不思議なもので。だから当然、たちまち苦しみを生んでしまうし。

「嫌い」という感情は当然、たちどころに自分も辛いし、自分が誰かを嫌ったならば、その嫌われた誰かも「嫌われている」ということを感じ取って、それも辛くなる。

「無関心」というのも、これも非常に辛いですね。誰かに構ってもらえない。どんなに辛くても、誰かにひと声、声をかけてもらうだけでもう救われた思いになるのに、誰からも声をかけられなくて、無関心状態に置かれる。これもほんとうに地獄ですね。

だから、「ふだんの我々は『好き』、『嫌い』、『無関心』というこの3つのチョイスしかなくて、この3つのチョイスをもつかぎりは、どうにもならない」という自覚があったところで、いよいよ「そうではない人間関係を、これから作っていこう」ということになる。

そのコア――核心――のところにくるのが、慈悲です。そう理解してください。

その慈悲というのは、絶対に”Thinking Mind”の世界にはなくて、それ[=”Thinking Mind”]が落ちた世界にしかない。ということは、そういう世界に入っていく。そこが本当にポイントです。だから決して、そういう「”Thinking Mind”でなんとか、人の幸せを願うぞ」と一生懸命にお唱えしても、全然、効果もなにもあったもんじゃないですね。そこを理解してください。

ですから、慈悲の瞑想というのは、いま言った3つのカテゴリーに加えて、もう1つの途轍もなく大事なカテゴリーがあって、それが「自分」――「私」――です。

だから、「自分プラス、3つのカテゴリー」で、4つのカテゴリーになります。そして、この「自分」というのが、とんでもなく曲者で、とんでもなく重要なもので。

我々はいつも、この「私」――「自分」――に対して非常に冷たい態度をとってきた。非常に残酷な態度をとってきた……何かうまく物事がすすまないときに。物事がうまくいかないときに、誰にも八つ当たりできなくて、もう自分にしか八つ当たりしない。そういう状況になっています。

だからまずは、この状況を最も根本的なところから変えるためには、まず「私」――この「自分」――に対して慈悲を送る。自分に対して、幸せであることを願う。

それで、実はね、この慈悲の瞑想のなかでいろんなことを念じていきますけども、この最初の「私が幸せでありますように」というのが、実はいちばん大事だということを最近つくづく思います。この「私が幸せでありますように」というところで、一気に物事を根本的に変えていきましょう。

(以下は実践を含む)

はい、じゃあ、ゆったりと座ってください。そしてね、自分は今まで自分に対してどれほど冷たかったか・残酷だったか……それをよくかみしめたうえで、こんどは自分に対して温かい気持ちで……自分をそういう気持ちで包んでください。こう念じながら……

「私が幸せでありますように 私が苦しみから解放されますように」

はい、しばらく念じてください。

「私が幸せでありますように」というのは、なぜそんなに大事なのか。これは、皆さんがそういう自我の意識――「俺は俺なんだ」・「俺は何十年か生きてきた、こういう人間なんだ」という意識――をもっているかぎりは、自分の幸せを願うことはできません。その場所からは願えないです。

皆さんがその場所を出て、自分の外に立って、その場所から自分をふりかえって、自分を包みこむような……そういうふうなかたちでしか、「私が幸せでありますように」とは念じられないですね。だから、「私が幸せでありますように」という最初の慈悲の瞑想がいちばん大事なのは、もうその最初から自分の外に立つ・立たざるを得ないということ。

じゃあその自分の外に立ったときに、皆さんはこれから、自分ではなくて他人との関係を結んでいきます。その場所――慈悲の場所――から結んでいく。

まったく新しい関係ですね。今までの〈好き/嫌い/無関心〉の関係ではない。

その「新しい関係」なんだけれども、いちばん易しいグループから始めましょう。

皆さんが今まで好きだった、好意を持っていた、尊敬していた……そういう人たちに慈悲を送るのは非常に簡単ですから、そこから始めます。

はい、じゃあ、自分が尊敬している人、好意を持っている人を1人選んでください。自分の先生、両親、パートナー、子供、親しい友人……どなたでもいいです。

ではその人を、自分の1.5メートルか2メートルぐらい前に置いて、ありありと思い浮かべてください。その人がまるでそこに存在するかのように。触れば触れるかのように。その人も今、笑っています。微笑んでいます。皆さんはその微笑みを見るのが大好きで、嬉しくて。その人がいつまでも幸せであってほしいと願って、こう念じてください……

 

「この人が幸せでありますように」

そしてこんどは、その人が非常に辛そうな、苦しそうな顔をしていて、皆さんはその痛みや寂しさや辛さや不安を自分のものとして感じて、堪らない思いをして、その人がなんとか、そこから解放されてほしいと願って、こう念じてください……

 

「この人が苦しみから解放されますように」

皆さんがすくなくとも、自分が好意を持っている人に慈悲を送ることができて。だけどその、慈悲そのものにこんどはフォーカスをあててください。皆さんが皆さんのなかで非常に強い慈悲に触れている。その非常に強い慈悲に触れたときに、ふりかえって他人を眺めたときに、もうそこには、「自分の友達」と「友達以外……赤の他人」を分ける壁はもう存在してないですね。

普通の思いの「好き」だったらば、「好きな人」と「嫌いな人」とがはっきり分かれるんだけれども、本当の慈悲には、「慈悲を送る人」と「送らない人」との区別はもう無くて。皆さんはすべての人に、すでに慈悲を送っています。皆さんはすべての人を「幸せであってほしい」と願っています。慈悲というのは、そういう性格のものです。

 

はい、じゃあ、それをもっと訓練していきましょう。

今日ね、ここに来る途中、電車に乗ってきたと思いますけども、その電車の中に居た人を1人ぐらい覚えていると思います。或いは歩いてきた人は、歩いてくる途中で出会った誰か……もちろん赤の他人で、もう二度と会うこともないような、そういう人たち。名前も当然知らない。そういう人を1人選んでください。

それで先ほどと同じように、自分の1.5メートルぐらい先にその人を置いて、念じてください

「この人が幸せでありますように。

この人が苦しみから解放されますように」

はい、皆さんの慈悲は非常に強くて……或いは、皆さんは本当のリアルな、本当に強い慈悲にいま触れている。そのときに、何も人工的なことを思わなくても、すべての人を自分の友達として感じる。その友達が幸せであってほしい、苦しみから解放されてほしいと素直に思える。そういう場所ですね。

その場所に立たないかぎり、そういうことを素直に・自然には思えません。

その場所に立たないところで、いくら人工的なふうに色々と「こうだから、こう考えて、すべての人の幸せを思わなきゃいけないんだ」というふうに推論することでも考えることでもなくて。ただ、すべての人が友達と感じる――自然に感じられる――、そういう場所に立ってください。そういう場所を見つけてください。

その場所に立っているかぎり、今の皆さんの心のなかには、一切のネガティブな感情が起こってきません。それは存在できないです。それはちょうど、真昼の太陽のもとで暗闇が存在できないかのように。それはもう、慈悲というものが火だとしたらね、火というものはすべてを燃やし尽くしていく。

ただ、今の皆さんにはネガティブな思いは無いかもしれないけど、まあずっと長いこと生きてきて、ネガティブな思いを抱えているわけですね……この自分という袋のなかに。

この自分という袋のなかには、たっぷりと過去の思い出が残っていて。もちろんそれを一気に捨てるという方法もありますけども、残っているということは否定しようがなくて。では、そのたっぷりと残っているものを、これからきれいにしていきます。

では、或る1人の人を思ってください。その人のことを思ったとたんに、無性に腹が立ってくる、無性に嫌な思い出が蘇ってくる、「あの屈辱的な言葉」が蘇ってくる……それによって、ネガティブな思いがフツフツと湧いてきてしまう。そういう人を、わざと選んでください。

ずっと心に気になっていた人、ずっと心にトゲになっていた人ね。そういう人を選んで、自分の1.5メートルぐらい先に置いて……置きづらいと思っているかもしれないけど、心配しないでください。いま皆さんの心のなかに非常に強い慈悲がふつふつと燃えているから。この燃えている慈悲という火のなかに、そういうネガティブな感情は燃やしてしまいましょう。

ちょうど、密教の人たちが護摩を焚くように、燃えさかる火のなかに自分のネガティブな記憶、ネガティブな感情を入れて燃やします。はい、じゃあそういう人を自分の目の前に置いて、さっきと同じようにこう念じてください……

「この人が幸せでありますように。

この人が苦しみから解放されますように」

はい、今まで、「自分」、「自分が好意を持っている人」、「赤の他人」、そして「自分が問題のある人」という4つのカテゴリーに慈悲を送ってきました。今ふりかえってみると、もう4つのカテゴリーの間に一切の壁はないですね。壁は存在できないです。

つまりその壁というのは、我々が”Thinking Mind”として生きてきたときにのみ存在していて。だから、慈悲の瞑想の入口としては、その壁に仕切られたカテゴリー分けに従って慈悲を送りますけども、慈悲を送ったあとでふりかえってみると、もうそこには壁はなくなっているはずです。

なぜなら、皆さんはもうすべての人に慈悲をもっているから。〈好き/嫌い/無関心〉ということはもう存在できないから。そして、自分と他人との区別ももうないからですね。だから、皆さんが慈悲の世界に入ったときに、そこにあるのはただ「生きとし生けるもの」だけです。それ以外は存在できないです。

はい、じゃあその慈悲の世界に入って、そこにただ存在している、生きとし生けるもの……それは、自分も他人も、好きな人も嫌いな人も無関心な人もすべて含んで、そしてそういう壁はすべてなくなった、そういう人たちですね。はい、では最後は、そういう人たちに慈悲を送りましょう……

「生きとし生けるものが幸せでありますように。

生きとし生けるものが苦しみから解放されますように」

はい、では皆さんはいま、慈悲の世界のなかにいます。そこでは、私と他人との区別――他人のなかでも、〈好きな人/嫌いな人/無関心な人〉という区別――が一切ない、そういう世界ですね。そういう世界というのは、”Thinking Mind”が離れた世界。”Thinking Mind”が落ちた世界。

一方で、”Thinking Mind”というのはいつも過去と未来に行ってばかりいて、絶対に現在には居てくれなかった。だから、現在に居ない以上は、「何かに気づく」というのはできなかった。

「何かに気づく」というのは、”Thinking Mind”ではない。それ[=”Thinking Mind”]が落ちたところで、「今ここ」でのみ、気づける。その「気づく」対象はいろいろありますけども、

それは「いろいろあるなかで何か1つだけを選んで、他のものは一切、無視する」ということではなくて、もう皆さんが慈悲のなかに居たときには、”Thinking Mind”が落ちているから、すべてに気づいている。ただ、「すべてに気づいている」と言っても、それだとちょっと漠然とするのでね、具体的な何かを1つ選んでみましょう。

この場合の対象は、「呼吸」といういちばんシンプルなものですね。だからそれも、「呼吸と呼吸以外とを分けて、呼吸だけに頑張って集中する」ということではなくて、呼吸はあくまでもきっかけです。

そして、呼吸という、マインドフルネスの対象……これが、今日の最初のところで言った「補助線」にあたります。この補助線さえ上手くひければ、皆さんはすべての仏教の伝統とつながることができます。

もうここで、マインドフルネスの意味が遥かに深くなっています。禅の意味でもなく、テラヴァーダの意味でももうなくて。そこから遥かに深いところで、いまマインドフルネスというものをとらえています。そうとらえたときに、皆さんは仏教の伝統のすべてを理解することができます。

はい、じゃあ、慈悲の瞑想をやった人も、そのまま時間があるかぎり、呼吸を観てください。

はい、自分の上唇の上あたりに軽く意識の中心をおいて、そこでただ息がしていること……

息を吐いていること、息を吸っていることにただ気づいてください。

 

はい、皆さんは今、生きとし生けるものに対する慈悲を強く感じている。慈悲のなかに、いま入っている。それを、今までは「慈悲の部屋」と呼んできました。その部屋に入らないかぎり、慈悲を起こすことはできない。我々の意志の力で・何かメソッドを使って慈悲を起こすということは、できないですね。

だけどその「部屋」のなかには、慈悲というものが調度品のように存在しているから、そこでは慈悲がもう自分の意志などとは関係なしにただ存在している。それに今、触れた。

そしてその「慈悲の部屋」というのは、それは同時に「気づきの部屋」でもある。そのなかでのみ、我々は何かに気づいていくことができる。その「部屋」の外では、我々はどんなに頑張っても、気づけなかった。これはもう、「どんなに頑張っても、気づけなかった」というのが1人の人の体験じゃなくて、瞑想を実践する多くの人――或いは全員――の体験として我々はいま共有しているわけね。

その「慈悲の部屋」の外では、どんな強固な意志も、どんなディティールのあるメソッドも、いっさい役に立たなかった。だけど不思議なことに、「慈悲の部屋」に入ったときに、自然なかたちで何かに気づくことができる。或いは、自然なかたちで息が観えてくる。

はい、じゃあ今から、慈悲の瞑想から呼吸瞑想へとつなぎますけども、そのつながりのところで、新しい試みをします。

いま皆さんが、地震・津波の被害者・被災者についての大量の映像を観ていると思います。或いは、映像じゃなくて実際に会った人も居るかと思いますけども。

そういう映像や経験のなかで、実際の知り合いでもいいし、或いは「テレビのニュースのなかで観た、未だに記憶にある人」――そういう人が絶対に1人は居るはずですから――、そういう人を目の前に置いてください。

先ほどのように1.5メートルぐらい前に置いてください。そしてその人の一番つらいところ・苦しいところを感じてください。

だから要するに、メッター[=「慈悲喜捨」のうちの慈。英語で“loving kindness”]はいいからカルナー[=「慈悲喜捨」のうちの悲。英語で“compassion”]だけですね。

そして、その人のつらさ・苦しさ・寂しさ・痛みをぜんぶ自分のものとして感じ取ってください。そしてそのうえで、その痛みやつらさというものを、ちょうど黒い煙のようなものとして心のなかに描いてください。

そして、今からそれを引き受けましょう……他人の苦しみを引き受けます。どうやって引き受けるのか?

息を吸うことによって引き受ける。息を吸うことによって、その苦しみを吸い込んでください。

これは非常につらいです。皆さんのエゴが激しく抵抗します。そのうえでこんどは、その人に対する最大限の慈悲を返してあげてください。

「この人が、なんとかして苦しみから解放される」……そういう慈悲をその人に返して、その人を慈悲で包んであげてください……息を吐きながらですよ。

はい、じゃあまた息を吸いながら、その人の苦しみを吸い取って、息を吐きながら、その人に返してください。はい、じゃあそうやって、慈悲と呼吸とをシンクロさせましょう。5分くらいやってみてください。

 

呼吸を吸うこと・吐くことに、非常に簡単に気づいていられたと思います。はい、じゃあもう慈悲の瞑想はここでいったん措いて、呼吸だけに注意を向けましょう。

背筋を真っ直ぐにして、手はそのまま両膝の上に置いたままでもいいし、さきほどの定印を組んでもいいし。

今すでに、息を吸うこと・吐くことに気づいていると思いますから、自分の意識の中心を自分の上唇の上あたりに置いてください……軽くですよ。無理する必要はないです。

そして、息を吸って、息を吸っていることに皆さんは当然気づいています。息を吐いて、息を吐いていることに気づいています。

もう皆さんは「今、ここ」という場所に居て、過去にも飛んでいないし、未来にも飛んでいない。もし過去の記憶に戻ってしまったり、或いは未来の予定とか期待とか心配だとかが出てきたら、また「今、ここ」に戻ってください。

 

はい、じゃあそのまま[呼吸瞑想を続ける]。